【登山期間】;2001年7月6日〜8月19日
【山 域】;パキスタン/レッサーカラコルム/スパンティーク
【団体盟】;埼玉2001スパンティーク登山隊
主催 埼玉県山岳連盟
主管 埼玉県海外登山委員会
後援 埼玉県 埼玉県教育委員会
【参加メンバー】;烏隊長、山川、萩原(ピオレ)、天野、成田、稲葉(遠峰) 計6名
【日程・行動概要】
7/6;成田発→イスラマバード
7/8;イスラマバード→チラス
7/9;チラス→スカルド
7/12;スカルド→アランドゥ(2930m)
7/13;アランドゥ→マンビホーラ(3400m)
7/14;マンビホーラ→ボロチョ(3900m)
7/15;>ボロチョ→B.C(4200m)
7/17;C1建設(5150m)
7/20;C2建設(5450m)
7/28;C3建設(6200m)
8/4;第1次アタック−6900mまで(6700mで雪洞ビバーク)
8/7;第2次アタック−登頂
8/11;B.C撤収
8/12;B.C→マンビホーラ
8/13;マンビホーラ→アランドゥ→チュトラン
8/14;チュトラン→スカルドゥ
8/16;スカルドゥ→ベシャーム
8/17;ベシャーム→イスラマバード
8/19;イスラマバード→成田
稲葉記
【ルート概要】
@ベースキャンプ
過去、広島隊、HAJ隊はJAPANESEベースと呼ばれるバズィン氷河上からのアプローチでしたが今回は南東稜の末端のB.Cを設けました。日本隊では初めてだと思います。外国の公募隊等はみんなこっち見たいで、賑やかでした。草原の上で寝っころがれるようなB.Cを想像してた私達に反し、モレーン上。石を敷き詰め、整地してのB.C整備。ぐちゃぐちゃです。下が氷河の為、1週間立つとテントが傾いて苦労しました。水は氷河上を流れるものは、かなりきれいでした。朝一はサイコーです。キャラバン中もそうでしたが、モレーン上を流れるものは雲母がシャンプーの様にキラキラして体に悪そうです。これは、ポリタンで一晩沈ませて飲んでました。
AB.C〜C1
岩がスレートばっかりですが全体的に穂高にそっくりです。尾根に取り付いてすぐはお花畑ここらへんは北穂南稜と呼んでました。雪もすぐ溶けてしまうのでトレッキングシューズで十分でした。水晶が多いです、みんな、お土産にとたくさん拾いました。C1は稜線に上がった所から2つ目のピーク上で、ちょうど、雪稜との接線。テントはスレート上に張れ、B.Cより暖かい。C1からはこれからの全ルート、頂上が見えます。
BC1〜C2
ほとんど高度を上げない雪稜で白馬主稜を伸ばした感じ。最後の1/3あたりからクレパスがあるのでアンザイレンしました。C2手前に5400mくらいのピーク、こいつが以外にでかい。このピークを越すと小プラトーがありテントを張りました。晴れると灼熱地獄です。
CC2〜C3
全ルート中の核心部でスノーピーク6300mを越す。下部2/3は10PのFIXで直登。上部1/3は左側を巻く感じ。3PのFIXが必要と感じた。(我々の登攀時は1Pのみだった)この巻くトラバースがいらやしい。斜面も氷化したカリカリバーンでスタカットでの行動でした。あとFIXの近くはヒドゥンクレパスがけっこう多くてメンバー全員落ちました。ザックが引っかかり助かりましたが、ここのが一番でかいっス。トラバースを終えるとコルに出て、雪尻を右に一段降りたところの台地がC3サイト地です。テン場からはバインダブラック、K2が真正面に見え、サイコーです。
DC3〜TOP
頂上までは6400mあたりに広がるプラトーを目指し、斜面を少し登ります。プラトーは左に見えるマルビディンとのコルから広がり、まさにスパンティークの台座。これまたでかいっス。取り付こうする左稜線が遥か向こうです。ここは赤布を8本近く立てましたが、それでも帰りにホワイトアウトでは迷いました。あと、このプラトーではスノーシューがあると良いと思いました。フリートレックみたいのも、ありかも知れません。(荷揚げに余裕あれば)左稜線に取り付いてからは、クレパスを避けて北斜面を登りました。黄色い岩の出ている最大傾斜地を越すと緩やかになりまもなく頂上でした。ここらへんの雪質はモナカ雪で中が砂糖のようになってました。
エッセイ 「ヒマヤラの女神は僕らに微笑んだ」
「C3にて」
…昨日は烏さんとプラトーまで天野さん達を迎えに行った。広い雪原に2人をみた時はタロ・ジロかと思うくらい感動的だった。2人の背後に頂上へのびる左稜線を見た。やっと日本の山と同じ感覚になった気がした。「あれに登るのか…遠いなぁ」
翌日は快晴。我々は休養日とし、烏さん、山川さんを見送る。今夜いよいよ頂上アタックだ。皆それぞれ思い思いに過ごす。テントからは何時もバインダブラックとマッシャーブルムそしてK2が見える。明日も頂上から見えたら良いな。夕飯後、仮眠をとる。が、僕は全然寝れない。隣の二人の寝息が羨ましい。
「アタック」
星空の下、0:00アタック出発、とても暖かく上はフリース。満月まではいかないが月明かりは幻想的だ。しばらくすると目が慣れヘッ電を消して歩く。一昨日のトレースがくっきり残っていた。左稜線まではストックで歩く。プラトーを半分過ぎた当たりで猛烈な寒気にダウンを着込む。時計は3:30、夜明け前だ。足の指全ての感覚が無く、EXインナーを履いて来ないことをひたすら悔やむ。あまりに我慢出来ない為、無理を言ってツェルトを被らしてもらう。15分ほど休み再び出発。クレパスを越えて左稜線に取付いたところで待望の太陽が輝き出した。ハラモシュの向こうにナンガパルパット。そこから右に見ていくとライラ、マルビディン、ディラン、ラカポシと見飽きることが無い。
ここからは3人でアンザイレンしトップ天野、萩原、ラスト稲葉で登る。ルートはクレパスを避け左稜線の北側を右上していく。冷え込みにより雪は締まってはいるがラストで、しかも3人中一番重い僕は腰まで潜ることがあった。陽が高くなるにつれ空が蒼く染まる。宇宙に近づいている事を感じた。一時、登っている斜面にも蒼が映り、苦しさを忘れ見上げ続けた。左稜線の中間地点で大休止、ここで稜線に出る。ところどころ黒いスレートの岩が出ている。眼下には呆れるくらい巨大なプラトー、天気は快晴だ。ここから左にゴールデンピークに由来する黄色の岩が大きく見える。ビスケットと紅茶を食べ再び出発する。高度計が6800mを超えた。天野さんはスピードが落ちず黙々とグズグズ雪と戦っている。私もラストながら調子は良い。黄色の岩を左手に見送り急雪壁を登りきると、また黒いスレートが出てきた。斜度が無くなり、頂上か?!と思ったが…。
この頃よりガスが沸き始め、頂上方面はうっすら空が見える程度になる。もうテントを出てから12時間が過ぎようとしている。頂上を意識すると何故こうも時間が長く感じるのだろう。2人が小ギャップを超えて見えなくなり、一息ついていると「頂上じゃないかな?」と天野さんの声が聞こえた。ザイルを手繰りながら登ると雪原を思わせる斜面に出た。雪も舞い始めたが、良く目を凝らして向こうを見ると空に雪面がぼんやりと浮かび、それは目の高さと変わらぬ位置にあった。ザックを降ろし「イエーイ!」と言ったような気がする。早速、BCへ無線を入れる。C2の烏隊長にはひたすら「ありがとうございます」を連発して、あとの言葉は覚えていない。それからは皆で撮影大会になり、僕にいたっては寄せ書きして貰ったTシャツ姿になり震えながら押して貰った。(残念ながらこの写真はイマイチだった。)それまで虎と化していた天野さんだが、家族の写真と一緒に撮った時は優しきパパの顔だった。
30分程で頂上を後にする。いつのまにか天気は吹雪へと変わっていたのだ。幸い暖かいが雪が腐ってもんどり打ちながらガンガン下る。視界が悪く下りは稜線を忠実にたどった。途中、第一次アタックでビバークしたという雪洞を見つけた。左稜線からプラトーに下り、ザイルを外したときは「これで核心は乗り切った」と思った。しかし、次の赤旗が見つからない。トレースは完全に消え、ホワイトアウト、さらに猛烈な眠気が襲ってきた。これには参った。歩いていると思ったら、ザックに座ってよだれ垂らして眠っていたりと記憶が曖昧。このまま目覚めないのが疲労凍死なのかと改めて感じた。
幸運にもプラトーを抜ける間際にガスが晴れC3へ無事帰還出来た。17:00だった。テントに入ってからは何も出来なかった。過度の疲労なのか体中が熱を発しガタガタ震えていた。しかし、火を焚き夕飯の準備を始めるとおさまり、いつもの食欲に戻っていた。この夜からは荷下げの為、食料減らしに
全力を注いだ。
「いざBCへ」
烏隊長がずっと待機してくれていたC2に下りる。ずっと一人でいた烏隊長はとてもうれしそうに話す。そして、その夜も食料減らしに全力を注いだ。久しぶりのお米は御馳走だった。明日は成田君も荷下げにC1へ上がってくれる。
C1からは皆30kgを超える逆ボッカで、ある意味アタックよりこたえた。(一番こたえたのはBC〜マンビホーラ)BCが間時かになって来たところでシェリフやイサックたちが迎えに来てくれた。とてもうれしかった。彼らの素朴な優しさが、ただ、うれしかった。
『最後に』
熱い熱い遠征からもうすぐ1年近くが経ちます。最近では向こうで感じたいろんな思いがなかなか思い出せなくなりました…えらく昔のことのようにも思えます。帰国したばかりは日常に戻るのに四苦八苦、そしてアメリカでのテロ。パキスタンが世間に注目される中、自分は本当にあの国へ行って来ただろうか?とも感じていました。そんな時はボロボロの手帳を開きます。
「たしかに自分はあそこに行き、見て感じて、そして登ったのだ」と。